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西田元典 | 意志(日漢對(duì)照版)

意志

西田幾多郎 文

何倩[1]

作者簡(jiǎn)介

西田幾多郎(1870.06.17~1945.06.07)生于日本石川縣金澤市,是日本近代哲學(xué)史上最有代表性的哲學(xué)家,京都學(xué)派創(chuàng)始人。東京大學(xué)哲學(xué)科預(yù)科畢業(yè)后,曾在山口高中、第四高中、學(xué)習(xí)院大學(xué)任教。1910年起任京都大學(xué)副教授、教授。1911年發(fā)表《善的研究》,后陸續(xù)發(fā)表《自覺(jué)中的直觀與反省》、《無(wú)的自覺(jué)限定》、《哲學(xué)的根本問(wèn)題》等。試圖以東方佛教思想為基礎(chǔ),以西方哲學(xué)思想為材料,求得東西方思想的內(nèi)在統(tǒng)一,確立了獨(dú)特的“西田哲學(xué)”體系,并培養(yǎng)了許多學(xué)生,形成“京都學(xué)派”。對(duì)日本大正昭和時(shí)期的哲學(xué)思想有重大影響。1940年獲日本文化勛章?!段魈飵锥嗬扇饭?9卷,由日本巖波書(shū)店出版 。

   余は今純粋経験の立腳地より意志の性質(zhì)を論じ、知と意との関係を明にしようと思う。意志は多くの場(chǎng)合において動(dòng)作を目的としまたこれを伴うのであるが、意志は精神現(xiàn)象であって外界の動(dòng)作とは自ら別物である。動(dòng)作は必ずしも意志の要件ではない、ある外界の事情のため動(dòng)作が起らなかったにしても、意志は意志であったのである。心理學(xué)者のいうように、我々が運(yùn)動(dòng)を意志するにはただ過(guò)去の記憶を想起すれば足りる、即ちこれに注意を向けさえすればよい、運(yùn)動(dòng)は自らこれに伴うのである、而してこの運(yùn)動(dòng)その者も純粋経験より見(jiàn)れば運(yùn)動(dòng)感覚の連続にすぎない。すべて意志の目的という者も直接にこれを見(jiàn)れば、やはり意識(shí)內(nèi)の事実である、我々はいつでも自己の狀態(tài)を意志するのである、意志には內(nèi)面的と外面的との區(qū)別はないのである。

我現(xiàn)在想從純粹經(jīng)驗(yàn)的立場(chǎng)來(lái)討論意志的性質(zhì),并闡明知與意的關(guān)系。在很多場(chǎng)合,意志以動(dòng)作為目的,并且?guī)в袆?dòng)作。意志是精神現(xiàn)象,與外界的動(dòng)作自然是有區(qū)別的。動(dòng)作不一定是意志的重要條件,即使因?yàn)槟撤N外界情況而沒(méi)有發(fā)生動(dòng)作,但意志仍然是意志。正像心理學(xué)家所說(shuō)的那樣,在我們有想要運(yùn)動(dòng)的意志時(shí),只要重溫過(guò)去的記憶就夠了,也就是只要把注意力轉(zhuǎn)向這方面就可以了,運(yùn)動(dòng)自然就會(huì)伴隨著它。并且如果從純粹經(jīng)驗(yàn)來(lái)看,這種運(yùn)動(dòng)本身也不過(guò)是運(yùn)動(dòng)感覺(jué)的連續(xù)。一切意志的目的,如果直接加以觀察時(shí),也仍然是意識(shí)以?xún)?nèi)的事實(shí);我們經(jīng)常以自己的狀態(tài)為意志,而意志是沒(méi)有內(nèi)面和外面的區(qū)別的。

   意志といえば何か特別なる力があるように思われているが、その実は一の心像より他の心像に移る推移の経験にすぎない、ある事を意志するというのは即ちこれに注意を向けることである。この事は最も明にいわゆる無(wú)意的行為の如き者において見(jiàn)ることができる、前にいった知覚の連続のような場(chǎng)合でも、注意の推移と意志の進(jìn)行とが全く一致するのである。勿論注意の狀態(tài)は意志の場(chǎng)合に限った訳ではなく、その範(fàn)囲が広いようであるが、普通に意志というのは運(yùn)動(dòng)表象の體系に対する注意の狀態(tài)である、換言すればこの體系が意識(shí)を占領(lǐng)し、我々がこれに純一となった場(chǎng)合をいうのである?;颏蠀gに一表象に注意するのとこれを意志の目的として見(jiàn)るのと違うように思うでもあろうが、そはその表象の屬する體系の差異である。すべて意識(shí)は體系的であって、表象も決して孤獨(dú)では起らない、必ず何かの體系に屬している。同一の表象であっても、その屬する體系によりて知識(shí)的対象ともなりまた意志の目的ともなるのである。たとえば、一杯の水を想起するにしても、単に外界の事情と連想する時(shí)は知識(shí)的対象であるが、自己の運(yùn)動(dòng)と連想せられた時(shí)は意志の目的となるのである。ゲーテが「意欲せざる天の星は美し」といったように、いかなる者も自己運(yùn)動(dòng)の表象の系統(tǒng)に入り來(lái)らざる者は意志の目的とはならぬのである。我々の欲求はすべて過(guò)去の経験の想起に因りて成立することは明なる事実である。その特徴たる強(qiáng)き感情と緊張の感覚とは、前者は運(yùn)動(dòng)表象の體系が我々に取りて最も強(qiáng)き生活本能に基づくのと、後者は運(yùn)動(dòng)に伴う筋覚に外ならぬのである。また単に運(yùn)動(dòng)を想起するのみではまだ直にこれを意志するとまでいうことはできぬようであるが、そは未だ運(yùn)動(dòng)表象が全意識(shí)を占領(lǐng)せぬ故である、真にこれに純一となれば直に意志の決行となるのである。

一提起意志,就好像有某種特殊的力量似的,其實(shí)它不過(guò)是由一個(gè)意象轉(zhuǎn)向另一個(gè)意象的轉(zhuǎn)移的經(jīng)驗(yàn),以做某事為意志,實(shí)際上就是把注意力轉(zhuǎn)向這方面。這種情況在所謂無(wú)意的行為中最能看得清楚,即使在上述知覺(jué)的連續(xù)那種場(chǎng)合,注意的轉(zhuǎn)移與意志的進(jìn)行也是完全一致的。當(dāng)然注意的狀態(tài)并不限于意志的場(chǎng)合,它的范圍似乎更廣泛些,但通常所謂意志是指對(duì)于運(yùn)動(dòng)表象這一體系的注意狀態(tài),換句話說(shuō),就是指這個(gè)體系占據(jù)了意識(shí),而我們與它打成一片的場(chǎng)合而言的。或許有人認(rèn)為只注意一個(gè)表象和把它當(dāng)做意志的目的來(lái)看,這兩件事似乎是不同的,其實(shí)那只是表象所隸屬的體系的差異。一切的意識(shí)都是體系性的,表象也決不會(huì)孤立地發(fā)生,而一定是屬于某種體系的。同一表象,根據(jù)它所屬的體系,既能成為知識(shí)的對(duì)象,也能成為意志的目的。試以想起一杯水為例,在僅僅聯(lián)想到外界事物的時(shí)候,是知識(shí)的對(duì)象;但在聯(lián)想到自己的運(yùn)動(dòng)的時(shí)候,就成為意志的目的。歌德說(shuō),“美哉,非我所欲的天上的星辰”,這句話可以說(shuō)明,任何不進(jìn)入自己運(yùn)動(dòng)的表象系統(tǒng)中的事物,都不能成為意志的目的。我們的欲望都是由于過(guò)去經(jīng)驗(yàn)的憶起而成立的,這是很明顯的事實(shí)。至于作為它的特征的強(qiáng)烈的感情與緊張的感覺(jué),前者是基于運(yùn)動(dòng)表象的體系對(duì)我們是最強(qiáng)烈的生活本能而發(fā)生的,后者只是伴隨運(yùn)動(dòng)的肌肉感覺(jué)而來(lái)的。僅僅想起某種運(yùn)動(dòng),似乎還不能立即說(shuō)是有了進(jìn)行這種運(yùn)動(dòng)的意志,那是因?yàn)檫\(yùn)動(dòng)表象還沒(méi)有占據(jù)整個(gè)意識(shí)的緣故,如果真正與它打成一片,就立即成為意志的斷然行動(dòng)了。

   しからば運(yùn)動(dòng)表象の體系と知識(shí)表象の體系といかなる差異があるであろうか。意識(shí)発達(dá)の始に遡りて見(jiàn)るとかくの如き區(qū)別があるのではない、我々の有機(jī)體は元來(lái)生命保存のために種々の運(yùn)動(dòng)をなすように作られている、意識(shí)はかくの如き本能的動(dòng)作に副うて発生するので、知覚的なるよりもむしろ衝動(dòng)的なるのがその原始的狀態(tài)である。然るに経験の積むに従い種々の連想ができるので、遂に知覚中樞を本とするのと運(yùn)動(dòng)中樞を本とするのと両種の體系ができるようになる。しかしいかに両體系が分化したといっても、全然別種の者となるのではない、純知識(shí)であっても何処かに実踐的意味を有っており、純意志であっても何らかの知識(shí)に基づいている。具象的精神現(xiàn)象は必ず両方面を具えている、知識(shí)と意志とは同一現(xiàn)象をその著しき方面によりて區(qū)別したのにすぎぬのである、つまり知覚は一種の衝動(dòng)的意志であり、意志は一種の想起である。しかのみならず、記憶表象の純知識(shí)的なる者であっても、必ず多少の実踐的意味を有っておらぬことはない、これに反し偶然に起るように思われる意志であっても、何かの刺戟に基づいているのである。また意志は多く內(nèi)より目的を以て進(jìn)行するというが、知覚であっても予め目的を定めてこれに感官を向ける事もできる、特に思惟の如きは盡く有意的であるといってもよい。これに反し衝動(dòng)的意志の如き者は全く受動(dòng)的である。右の如く考えて見(jiàn)ると、運(yùn)動(dòng)表象と知識(shí)表象とは全く類(lèi)を異にせるものではなく、意志と知識(shí)との區(qū)別も単に相対的であるといわねばならぬようになる。意志の特徴である苦楽の情、緊張の感も、その程度は弱くとも、知的作用に必ず伴うている。知識(shí)も主観的に見(jiàn)れば、內(nèi)面的潛勢(shì)力の発展とも見(jiàn)ることができる、かつていったように、意志も知識(shí)も潛在的ある者の體系的発展と見(jiàn)做すことができるのである。勿論主観と客観とを分けて考えて見(jiàn)れば、知識(shí)においては我々は主観を客観に従えるが、意志においては客観を主観に従えるという區(qū)別もあるであろう。これを詳論するには主客の性質(zhì)および関係を明にする必要もあるであろうが、余はこの點(diǎn)においても知と意との間に共通の點(diǎn)があるのであろうと思う。知識(shí)的作用においては、我々は予め一の仮定を抱きこれを事実に照らして見(jiàn)るのである、いかに経験的研究であっても必ず先ず仮定を有っていなければならぬ、而してこの仮定がいわゆる客観と一致する時(shí)、これを真理と信ずるのである、即ち真理を知り得たのである。意志的動(dòng)作においても、我は一の欲求を有っていても、直にこれが意志の決行となるのではない、これを客観的事実に鑒み、その適當(dāng)にして可能なるを知った時(shí)、始めて実行に移るのである。前者において我々は全然主観を客観に従えるが、後者においては客観を主観に従えるということができるであろうか。欲求は能く客観と一致することに因りてのみ実現(xiàn)することができる、意志は客観より遠(yuǎn)ざかれば遠(yuǎn)ざかる程無(wú)効となり、これに近づけば近づくほど有効となるのである。我々が現(xiàn)実と離れた高き目的を?qū)g行しようと思う場(chǎng)合には種々の手段を考え、これに因りて一歩一歩と進(jìn)まねばならぬ、而してかく手段を考えるのは即ち客観に調(diào)和を求めるのである、これに従うのである、若し到底その手段を見(jiàn)出すことができぬならば、目的その者を変更するより外はなかろう。これに反し目的が極めて現(xiàn)実に近かった時(shí)には、飲食起臥の習(xí)慣的行為の如く、欲求は直に実行となるのである、かかる場(chǎng)合には主観より働くのではなく、かえって客観より働くとも見(jiàn)らるるのである。

那么,運(yùn)動(dòng)表象的體系與知識(shí)表象的體系有什么差別呢?如果追溯到意識(shí)發(fā)展的開(kāi)始來(lái)看,是沒(méi)有這種區(qū)別的。我們的有機(jī)體本來(lái)是為了進(jìn)行以保存生命為目的的種種運(yùn)動(dòng)而生成的。意識(shí)就是為符合這種本能的動(dòng)作而發(fā)生的,因此,它的原始狀態(tài)與其說(shuō)是知覺(jué)的,毋寧說(shuō)是沖動(dòng)的。但是,隨著經(jīng)驗(yàn)的積累,逐漸產(chǎn)生種種聯(lián)想,終于產(chǎn)生了以知覺(jué)中樞為基本的和以運(yùn)動(dòng)中樞為基本的兩種體系。不過(guò)不管怎樣分化為兩種體系,總不能成為完全不同的東西。即使是純知識(shí),也要在某些地方具有實(shí)踐的意義;即使是純意志,也一定是根據(jù)某種知識(shí)的。具體的精神現(xiàn)象一定具有這兩方面。知識(shí)與意志不過(guò)是把同一現(xiàn)象按照顯著的方面而區(qū)別開(kāi)來(lái)的而已。也就是說(shuō)知覺(jué)是一種沖動(dòng)的意志,意志是一種憶起。并且,即使是記憶表象的純知識(shí)性的東西,也一定帶有或多或少的實(shí)踐意義。反之,即使被認(rèn)為是偶然發(fā)生的意志,也總是基于某種刺激而發(fā)生的。而且,雖然說(shuō)意志大多是作為內(nèi)在的目的進(jìn)行的,但知覺(jué)也能夠預(yù)先確定目的而使感覺(jué)器官朝向它。特別是思維,可以說(shuō)完全是有意識(shí)的;反之,沖動(dòng)的意志之類(lèi)就完全是被動(dòng)的了。這樣看來(lái),運(yùn)動(dòng)表象與知識(shí)表象就不是完全不同的東西;意志與知識(shí)的區(qū)別也只能說(shuō)是相對(duì)的??鄻?lè)之情、緊張之感等意志的特征,雖然程度較弱,但一定附隨著知的作用。如果主觀地來(lái)看知識(shí),也可以看做是內(nèi)在的潛能的發(fā)展,又如上所述,無(wú)論是意志或知識(shí),都可以看做是潛在的某種東西的體系的發(fā)展。當(dāng)然,如果把主觀與客觀分開(kāi)來(lái)看的話,也許會(huì)得出這樣的區(qū)別:在知識(shí)方面,是使主觀服從于客觀;但在意志方面,則是使客觀服從于主觀。要想詳細(xì)討論這點(diǎn),也許有明確主客的性質(zhì)及其關(guān)系的必要,但我認(rèn)為在這一點(diǎn)上,知與意之間也將有共同之點(diǎn)。在知識(shí)作用方面,我們總是先設(shè)一個(gè)假定,再把它同事實(shí)對(duì)照觀察。無(wú)論什么樣的經(jīng)驗(yàn)性的研究,必須先有假定。當(dāng)這個(gè)假定與所謂客觀一致的時(shí)候,便相信它是真理,也就是認(rèn)識(shí)了真理。在意志動(dòng)作方面,即使我有一個(gè)欲望,也不是立即成為意志的斷然行動(dòng),而是參照客觀的事實(shí),知道是適當(dāng)?shù)暮涂赡茏龅臅r(shí)候,才轉(zhuǎn)移到實(shí)行。在前一場(chǎng)合,我們完全是使主觀服從于客觀,但在后一場(chǎng)合,是否可以說(shuō)是使客觀服從主觀呢?欲望只有很好地符合客觀才能實(shí)現(xiàn),意志離開(kāi)客觀越遠(yuǎn)越無(wú)效,越接近就越有效。如果我們打算實(shí)行遠(yuǎn)離現(xiàn)實(shí)的崇高目的,就必須考慮種種手段,并運(yùn)用這些手段來(lái)一步一步地進(jìn)行。而這樣考慮手段,就是謀求和客觀相調(diào)和,也就是服從客觀。如果終于想不出手段來(lái),那就只好變更目的本身了。反之,在目的和現(xiàn)實(shí)極為接近的時(shí)候,像飲食起居這些習(xí)慣行為等,欲望便立即成為實(shí)行。在這種情況下,活動(dòng)不是來(lái)自主觀,反而可以看作是來(lái)自客觀。

   かく意志において全然客観を主観に従えるといえないように、知識(shí)において主観を客観に従えるとはいわれぬ。自己の思想が客観的真理となった時(shí)、即ちそが実在の法則であって実在はこれによりて動(dòng)くことを知った時(shí)、我は我理想を?qū)g現(xiàn)し得たということができぬであろうか。思惟も一種の統(tǒng)覚作用であって、知識(shí)的要求に基づく內(nèi)面的意志である。我々が思惟の目的を達(dá)し得たのは一種の意志実現(xiàn)ではなかろうか。ただ両者の異なるのは、一は自己の理想に従うて客観的事実を変更し、一は客観的事実に従うて自己の理想を変更するにあるのである。即ち一は作為し一は見(jiàn)出すといってよかろう、真理は我々の作為すべき者ではなく、かえってこれに従うて思惟すべき者であるというのである。しかし我々が真理といっている者は果して全く主観を離れて存する者であろうか。純粋経験の立腳地より見(jiàn)れば、主観を離れた客観という者はない。真理とは我々の経験的事実を統(tǒng)一した者である、最も有力にして統(tǒng)括的なる表象の體系が客観的真理である。真理を知るとかこれに従うとかいうのは、自己の経験を統(tǒng)一する謂である、小なる統(tǒng)一より大なる統(tǒng)一にすすむのである。而して我々の真正な自己はこの統(tǒng)一作用その者であるとすれば、真理を知るというのは大なる自己に従うのである。大なる自己の実現(xiàn)である(ヘーゲルのいったように、すべての學(xué)問(wèn)の目的は、精神が天地間の萬(wàn)物において己自身を知るにあるのである)。知識(shí)の深遠(yuǎn)となるに従い自己の活動(dòng)が大きくなる、これまで非自己であった者も自己の體系の中に入ってくるようになる。我々はいつでも個(gè)人的要求を中心として考えるから、知識(shí)において所動(dòng)的であるように感ぜられるのであるが、若しこの意識(shí)的中心を変じてこれをいわゆる理性的要求に置くならば、我々は知識(shí)においても能動(dòng)的となるのである。スピノーザのいったように知は力である。我々は常に過(guò)去の運(yùn)動(dòng)表象の喚起によりて自由に身體を動(dòng)かし得ると信じている。しかし我々の身體も物體である、この點(diǎn)より見(jiàn)ては他の物體と変りはない。視覚にて外物の変化を知るのも、筋覚にて自己の身體の運(yùn)動(dòng)を感ずるのも同一である、外界といえば両者共に外界である。しかるに何故に他物とは違って、自己の身體だけは自己が自由に支配することができると考え得るのであろうか。我々は普通に運(yùn)動(dòng)表象をば、一方において我々の心像であると共に一方において外界の運(yùn)動(dòng)を起す原因となると考えているが、純粋経験の立腳地より見(jiàn)れば、運(yùn)動(dòng)表象によりて身體の運(yùn)動(dòng)を起すというも、ある予期的運(yùn)動(dòng)表象に直に運(yùn)動(dòng)感覚を伴うというにすぎない、この點(diǎn)においてはすべて予期せられた外界の変化が実現(xiàn)せられるのと同一である。実際、原始的意識(shí)の狀態(tài)では自己の身體の運(yùn)動(dòng)と外物の運(yùn)動(dòng)とは同一であったであろうと思う、ただ経験の進(jìn)むにつれてこの二者が分化したのである。即ち種々なる約束の下に起る者が外界の変化と見(jiàn)られ、予期的表象にすぐに従う者が自己の運(yùn)動(dòng)と考えられるようになったのである。しかし固よりこの區(qū)別は絶対的でないのであるから、自己の運(yùn)動(dòng)であっても少しく複雑なる者は予期的表象に直に従うことはできぬ、この場(chǎng)合においては意志の作用は著しく知識(shí)の作用に近づいてくるのである。要するに、外界の変化といっている者も、その実は我々の意識(shí)界即ち純粋経験內(nèi)の変化であり、また約束の有無(wú)ということも程度の差であるとすれば、知識(shí)的実現(xiàn)と意志的実現(xiàn)とは畢竟同一性質(zhì)の者となってくる?;颏弦庵镜倪\(yùn)動(dòng)においては予期的表象は単にこれに先だつのでなく、其者が直に運(yùn)動(dòng)の原因となるのであるが、外界の変化においては知識(shí)的なる予期表象其者が変化の原因となるのではないというかも知れぬが、元來(lái)、因果とは意識(shí)現(xiàn)象の不変的連続である、仮に意識(shí)を離れて全然獨(dú)立の外界なる者があるとするならば、意志においても意識(shí)的なる予期表象が直に外界における運(yùn)動(dòng)の原因とはいわれまい、単に両現(xiàn)象が平行するというまででなければならぬ。かく見(jiàn)れば意志的予期表象の運(yùn)動(dòng)に対する関係は知識(shí)的予期表象の外界に対する関係と同一になる。実際、意志的予期表象と身體の運(yùn)動(dòng)とは必ずしも相伴うのではない、やはりある約束の下に伴うのである。

由此可見(jiàn),在意志方面,不能說(shuō)是客觀完全服從主觀;同樣在知識(shí)方面,也不能說(shuō)是使主觀服從客觀。當(dāng)自己的思想成為客觀的真理的時(shí)候,即認(rèn)識(shí)它是實(shí)在的規(guī)律,實(shí)在是根據(jù)這個(gè)規(guī)律活動(dòng)的時(shí)候,是否不可以說(shuō)我的理想得到了實(shí)現(xiàn)呢?思維也是一種統(tǒng)覺(jué)作用,是基于知識(shí)要求的內(nèi)在的意志。我們能夠達(dá)到思維的目的,不就是一種意志的實(shí)現(xiàn)嗎??jī)烧卟煌牡胤絻H僅在于:一個(gè)是按照自己的理想來(lái)改變客觀的事實(shí),另一個(gè)是按照客觀的事實(shí)來(lái)改變自己的理想。即可以說(shuō)一個(gè)是造作,另一個(gè)是發(fā)現(xiàn)。真理不是我們所能造作的,反之是應(yīng)該服從真理來(lái)進(jìn)行思維的。但是,我們稱(chēng)之為真理的,果真是完全離開(kāi)主觀而存在的東西嗎?從純粹經(jīng)驗(yàn)的立場(chǎng)來(lái)看,就沒(méi)有離開(kāi)主觀的客觀。所謂真理就是把我們所經(jīng)驗(yàn)的事實(shí)統(tǒng)一起來(lái)的東西;最有力的和概括性的表象的體系就是客觀的真理。所謂認(rèn)識(shí)真理或服從真理,就是指對(duì)自己的經(jīng)驗(yàn)進(jìn)行統(tǒng)一。也就是從小的統(tǒng)一進(jìn)展到大的統(tǒng)一。如果我們的真正自我就是這種統(tǒng)一作用本身的話,那么所謂認(rèn)識(shí)真理,就是服從大的自我,也就是大的自我的實(shí)現(xiàn)(像黑格爾所說(shuō)的,一切學(xué)問(wèn)的目的是在于精神在天地間的萬(wàn)物中認(rèn)識(shí)自我本身)。隨著知識(shí)愈趨深遠(yuǎn),自己的活動(dòng)范圍也就逐漸擴(kuò)大,于是,原來(lái)不是自我的東西也逐漸進(jìn)入自我的體系之中。因?yàn)槲覀兘?jīng)常以個(gè)人的要求為中心來(lái)進(jìn)行思考,所以在知識(shí)方面感覺(jué)到似乎是被動(dòng)的,但如改變這種意識(shí)的中心,把它放在所謂理性的要求上,我們?cè)谥R(shí)方面便成為能動(dòng)的。亦即像斯賓諾莎所說(shuō)的,知識(shí)就是力量。我們一直相信,由于過(guò)去的運(yùn)動(dòng)表象的喚起能夠使人們自由地活動(dòng)身體。但是我們的身體也是物體,從這一點(diǎn)來(lái)看,與其他的物體沒(méi)有什么不同。用視覺(jué)來(lái)認(rèn)識(shí)外界事物的變化和用肌肉感覺(jué)來(lái)感覺(jué)自己的身體的運(yùn)動(dòng)也都是相同的。如果說(shuō)是外界,則兩者都是外界。那么,人們?yōu)槭裁磿?huì)認(rèn)為自己的身體與他物不同,只有它才可以由自己自由支配呢?我們通常一說(shuō)到運(yùn)動(dòng)表象,便認(rèn)為它一方面是我們的意象,另方面又是引起外界運(yùn)動(dòng)的原因;但從純粹經(jīng)驗(yàn)的立場(chǎng)來(lái)看,所謂由運(yùn)動(dòng)表象引起身體的運(yùn)動(dòng),也不過(guò)是說(shuō)某種預(yù)期的運(yùn)動(dòng)表象立即帶有運(yùn)動(dòng)感覺(jué)而已。在這一點(diǎn)上,它與一切預(yù)期的外界變化的實(shí)現(xiàn)是相同的。我想在原始意識(shí)的狀態(tài)方面,實(shí)際上自己的身體的運(yùn)動(dòng)與外物的運(yùn)動(dòng)是相同的,只是隨著經(jīng)驗(yàn)的進(jìn)展,兩者發(fā)生了分化。即在種種條件限制下發(fā)生的東西被看做是外界的變化,而緊隨著預(yù)期表象的東西被認(rèn)為是自我的運(yùn)動(dòng)。但是因?yàn)檫@種區(qū)別本來(lái)不是絕對(duì)的,所以即使是自我的運(yùn)動(dòng),略為復(fù)雜的東西便不能立即隨著預(yù)期的表象。在這種場(chǎng)合,意志的作用就顯著地接近于知識(shí)的作用??傊^外界的變化實(shí)際上也是我們的意識(shí)領(lǐng)域,即純粹經(jīng)驗(yàn)內(nèi)的變化;并且如果認(rèn)為條件限制的有無(wú),也只是程度上的差別的話,那么知識(shí)的實(shí)現(xiàn)與意志的實(shí)現(xiàn),畢竟將成為同一性質(zhì)的東西?;蛟S有人說(shuō),在意志的運(yùn)動(dòng)方面,預(yù)期表象不是僅僅先于意志的運(yùn)動(dòng),而是它本身立即成為運(yùn)動(dòng)的原因,但在外界的變化方面,知識(shí)性的預(yù)期表象本身或許并不成為變化的原因。可是所謂因果本來(lái)是意識(shí)現(xiàn)象的不變的連續(xù),假如說(shuō)有離開(kāi)意識(shí)而完全獨(dú)立的外界事物的話,那么在意志方面,也不能說(shuō)意識(shí)性的預(yù)期表象就是外界中的運(yùn)動(dòng)的原因,而只能說(shuō)兩個(gè)現(xiàn)象是平行的。這樣看來(lái),意志的預(yù)期表象同運(yùn)動(dòng)的關(guān)系和知識(shí)的預(yù)期表象同外界的關(guān)系成為同一的了。實(shí)際上意志的預(yù)期表象與身體的運(yùn)動(dòng)未必總是相伴隨的,還是要在某種條件下才是相伴隨的。

   また我々は普通に意志は自由であるといっている。しかしいわゆる自由とはいかなることをいうのであろうか。元來(lái)我々の欲求は我々に與えられた者であって、自由にこれを生ずることはできない。ただある與えられた最深の動(dòng)機(jī)に従うて働いた時(shí)には、自己が能動(dòng)であって自由であったと感ぜられるのである、これに反し、かかる動(dòng)機(jī)に反して働いた時(shí)は強(qiáng)迫を感ずるのである、これが自由の真意義である。而してこの意味においての自由は単に意識(shí)の體系的発展と同意義であって、知識(shí)においても同一の場(chǎng)合には自由であるということができる。我々はいかなる事をも自由に欲することができるように思うが、そは単に可能であるという迄である、実際の欲求はその時(shí)に與えられるのである、ある一の動(dòng)機(jī)が発展する場(chǎng)合には次の欲求を予知することができるかも知れぬが、然らざれば次の瞬間に自己が何を欲求するかこれを予知することもできぬ。要するに我が欲求を生ずるというよりはむしろ現(xiàn)実の動(dòng)機(jī)が即ち我である。普通には欲求の外に超然たる自己があって自由に動(dòng)機(jī)を決定するようにいうのであるが、かくの如き神秘力のないのはいうまでもなく、若しかかる超然的自己の決定が存するならば、それは偶然の決定であって、自由の決定とは思われぬのである。

另外,我們通常說(shuō)意志是自由的。但是所謂自由是指著什么說(shuō)的呢?我們的欲望本來(lái)是被賦與我們的,并不能自由地產(chǎn)生。只有在隨著某種被賦與的最深的動(dòng)機(jī)進(jìn)行活動(dòng)的時(shí)候,自己才感到是能動(dòng)的和自由的。反之,在從事違反這種動(dòng)機(jī)的活動(dòng)時(shí),就會(huì)感到受強(qiáng)迫。這就是自由的真正意義。并且,在這種意義上的自由,只是同意識(shí)的體系的發(fā)展意義相同,而在知識(shí)方面,在同一的情況下也可以說(shuō)是自由。我們認(rèn)為對(duì)任何事物似乎都能夠自由地抱有欲望,但這只能說(shuō)是可能而已。實(shí)際的欲望是當(dāng)時(shí)被賦與的,或許在某一個(gè)動(dòng)機(jī)發(fā)展的時(shí)候,能夠預(yù)知次一欲望,否則就不能預(yù)知自己在次一瞬間會(huì)有什么欲望??傊?,與其說(shuō)我產(chǎn)生欲望,不如說(shuō)現(xiàn)實(shí)的動(dòng)機(jī)就是我。通常說(shuō)在欲望之外有超然的自我存在,可以自由地決定動(dòng)機(jī),但這樣的神秘力量當(dāng)然是沒(méi)有的;如果存在這種超然的自我的決定的話,那就是偶然的決定,而不能認(rèn)為是自由的決定。

   上來(lái)論じ來(lái)ったように、意志と知識(shí)との間には絶対的區(qū)別のあるのではなく、そのいわゆる?yún)^(qū)別とは多く外より與えられた獨(dú)斷にすぎないのである。純粋経験の事実としては意志と知識(shí)との區(qū)別はない、共に一般的ある者が體系的に自己を?qū)g現(xiàn)する過(guò)程であって、その統(tǒng)一の極致が真理であり兼ねてまた実行であるのである。かつていった知覚の連続のような場(chǎng)合では、未だ知と意と分れておらぬ、真に知即行である。ただ意識(shí)の発展につれて、一方より見(jiàn)れば種々なる體系の衝突の為、一方より見(jiàn)ればさらに大なる統(tǒng)一に進(jìn)む為、理想と事実との區(qū)別ができ、主観界と客観界とが分れてくる、そこで主より客に行くのが意で、客より主に來(lái)るのが知であるというような考も出てくる。知と意との區(qū)別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統(tǒng)一せる狀態(tài)を失った場(chǎng)合に生ずるのである。意志における欲求も知識(shí)における思想も共に理想が事実と離れた不統(tǒng)一の狀態(tài)である。思想というのも我々が客観的事実に対する一種の要求である、いわゆる真理とは事実に合うた実現(xiàn)し得べき思想ということであろう。この點(diǎn)より見(jiàn)れば事実に合うた実現(xiàn)し得べき欲求と同一といってよい、ただ前者は一般的で、後者は個(gè)人的なるの差があるのである。それで意志の実現(xiàn)とか真理の極致とかいうのはこの不統(tǒng)一の狀態(tài)から純粋経験の統(tǒng)一の狀態(tài)に達(dá)するの謂である。意志の実現(xiàn)をかく考えるのは明であるが、真理をもかく考えるには多少の説明を要するであろう。いかなる者が真理であるかというについては種々の議論もあるであろうが、余は最も具體的なる経験の事実に近づいた者が真理であると思う。往々真理は一般的であるという、もしその意味が単に抽象的共通ということであれば、かかる者はかえって真理と遠(yuǎn)ざかったものである。真理の極致は種々の方面を綜合する最も具體的なる直接の事実その者でなければならぬ。この事実がすべての真理の本であって、いわゆる真理とはこれより抽象せられ、構(gòu)成せられた者である。真理は統(tǒng)一にあるというが、その統(tǒng)一とは抽象概念の統(tǒng)一をいうのではない、真の統(tǒng)一はこの直接の事実にあるのである。完全なる真理は個(gè)人的であり、現(xiàn)実的である。それ故に完全なる真理は言語(yǔ)にいい現(xiàn)わすべき者ではない、いわゆる科學(xué)的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである。

如上所述,在意志與知識(shí)之間沒(méi)有絕對(duì)的區(qū)別,所謂區(qū)別大多只是外界所賦與的獨(dú)斷。作為純粹經(jīng)驗(yàn)的事實(shí)來(lái)說(shuō),并沒(méi)有意志與知識(shí)的區(qū)別,而都是某種一般性的東西有體系地實(shí)現(xiàn)自己的過(guò)程,它的統(tǒng)一的頂點(diǎn)就是真理,同時(shí)又是實(shí)踐。在曾經(jīng)說(shuō)過(guò)的知覺(jué)的連續(xù)那樣的場(chǎng)合,知與意尚未分開(kāi),真正是知即行。只是隨著意識(shí)的發(fā)展,一方面由于種種體系的矛盾;另一方面由于向更大的統(tǒng)一前進(jìn),才發(fā)生了理想與事實(shí)的區(qū)別和主觀界與客觀界的劃分,因而就產(chǎn)生了這種想法,由主觀走向客觀的是意,由客觀走向主觀的是知。知與意的區(qū)別,是在主觀與客觀分離,并喪失了純粹經(jīng)驗(yàn)的統(tǒng)一狀態(tài)時(shí)發(fā)生的。意志方面的欲望和知識(shí)方面的思想都是理想離開(kāi)了事實(shí)的不統(tǒng)一的狀態(tài)。所謂思想也是我們對(duì)于客觀事實(shí)的一種要求;而所謂真理,將是符合事實(shí)的、能夠?qū)崿F(xiàn)的思想。從這一點(diǎn)看來(lái),可以說(shuō)它是和符合事實(shí)的、能夠?qū)崿F(xiàn)的欲望相同的。它們的差別只是:前者是一般性的,而后者是個(gè)人的。因此所謂意志的實(shí)現(xiàn)或真理的極點(diǎn),就是從這個(gè)不統(tǒng)一的狀態(tài)到達(dá)純粹經(jīng)驗(yàn)的統(tǒng)一狀態(tài)的意思。這樣來(lái)認(rèn)識(shí)意志的實(shí)現(xiàn),是很明白的,但如也這樣來(lái)認(rèn)識(shí)真理,恐怕將需要多少加以說(shuō)明。關(guān)于什么是真理的問(wèn)題,一定會(huì)有種種不同的意見(jiàn),我認(rèn)為最接近具體經(jīng)驗(yàn)的事實(shí)的是真理。往往有人說(shuō)真理是一般性的,如果這只意味著抽象的共同,那就反而是離開(kāi)真理的東西了。真理的極點(diǎn)必須是綜合種種方面的最具體的直接的事實(shí)本身。這個(gè)事實(shí)是一切真理的根本,所謂真理,就是由它抽象出來(lái)和構(gòu)成起來(lái)的。說(shuō)真理在于統(tǒng)一,但這個(gè)統(tǒng)一不是指抽象概念的統(tǒng)一而言的,真正的統(tǒng)一在于這個(gè)直接的事實(shí)。完全的真理是個(gè)人的、是現(xiàn)實(shí)的。因此,完全的真理不是用語(yǔ)言所能表達(dá)的,如所謂科學(xué)的真理不能說(shuō)是完全的真理。

   すべて真理の標(biāo)準(zhǔn)は外にあるのではなく、かえって我々の純粋経験の狀態(tài)にあるのである、真理を知るというのはこの狀態(tài)に一致するのである。數(shù)學(xué)などのような抽象的學(xué)問(wèn)といわれている者でも、その基礎(chǔ)たる原理は我々の直覚即ち直接経験にあるのである。経験には種々の階級(jí)がある、かつていったように、関係の意識(shí)をも経験の中に入れて考えて見(jiàn)ると、數(shù)學(xué)的直覚の如き者も一種の経験である。かく種々の直接経験があるならば、何によりてその真?zhèn)韦蚨à啶毪我嗓馄黏毪扦ⅳ恧Δⅳ饯隙膜谓U験が第三の経験の中に包容せられた時(shí)、この経験によりてこれを決することができる。とにかく直接経験の狀態(tài)において、主客相沒(méi)し、天地唯一の現(xiàn)実、疑わんと欲して疑う能わざる処に真理の確信があるのである。一方において意志の活動(dòng)ということを考えて見(jiàn)るとやはり此の如き直接経験の現(xiàn)前即ち意識(shí)統(tǒng)一の成立をいうにすぎぬ。一の欲求の現(xiàn)前は単に表象の現(xiàn)前と同じく直接経験の事実である。種々の欲求の爭(zhēng)の後一つの決斷ができたのは、種々思慮の後一の判斷ができたように、一の內(nèi)面約統(tǒng)一が成立したのである。意志が外界に実現(xiàn)されたという時(shí)は、學(xué)問(wèn)上自己の考が実験によりて証明せられた場(chǎng)合のように、主客の別を打破した最も統(tǒng)一せる直接経験の現(xiàn)前したのである?;颏弦庾R(shí)內(nèi)の統(tǒng)一は自由であるが、外界との統(tǒng)一は自然に従わねばならぬというが、內(nèi)界の統(tǒng)一であっても自由ではない、統(tǒng)一はすべて我々に與えられる者である、純粋経験より見(jiàn)れば內(nèi)外などの區(qū)別も相対的である。意志の活動(dòng)とは単に希望の狀態(tài)ではない、希望は意識(shí)不統(tǒng)一の狀態(tài)であって、かえって意志の実現(xiàn)が妨げられた場(chǎng)合である、ただ意識(shí)統(tǒng)一が意志活動(dòng)の狀態(tài)である。たとい現(xiàn)実が自己の真実の希望に反していても、現(xiàn)実に満足しこれに純一なる時(shí)は、現(xiàn)実が意志の実現(xiàn)である。これに反し、いかに完備した境遇であっても、他に種々の希望があって現(xiàn)実が不統(tǒng)一の狀態(tài)であった時(shí)には、意志が妨げられているのである。意志の活動(dòng)と否とは純一と不純一、即ち統(tǒng)一と不統(tǒng)一とに関するのである。

一切真理的標(biāo)準(zhǔn)不是在外部,而是在于我們的純粹經(jīng)驗(yàn)的狀態(tài),所謂認(rèn)識(shí)真理就是與這個(gè)狀態(tài)相一致。像數(shù)學(xué)那些抽象的學(xué)問(wèn),構(gòu)成它的基礎(chǔ)的原理也在于我們的直覺(jué)或直接經(jīng)驗(yàn)。經(jīng)驗(yàn)有種種不同的階段,如前所述,若將關(guān)系的意識(shí)也放到經(jīng)驗(yàn)之中來(lái)看時(shí),那么像數(shù)學(xué)的直覺(jué)這種東西也是一種經(jīng)驗(yàn)。如果有這樣種種的直接經(jīng)驗(yàn),那么將會(huì)發(fā)生根據(jù)什么來(lái)確定真?zhèn)蔚囊蓡?wèn),但這在兩個(gè)經(jīng)驗(yàn)被包含在第三個(gè)經(jīng)驗(yàn)中的時(shí)候,就可根據(jù)這個(gè)經(jīng)驗(yàn)來(lái)確定??傊?,在直接經(jīng)驗(yàn)的狀態(tài)下,真理的確信,就存在于主客相消失、天地間唯一的現(xiàn)實(shí)和將欲疑而不能疑的地方。另一方面,所謂意志的活動(dòng)也只是指這種直接經(jīng)驗(yàn)的出現(xiàn),即意識(shí)統(tǒng)一的成立而言。一個(gè)欲望的出現(xiàn),和表象的出現(xiàn)一樣,只是直接經(jīng)驗(yàn)的事實(shí)。在種種欲望進(jìn)行斗爭(zhēng)后,作出一個(gè)決斷,就和在進(jìn)行種種思慮后作出一個(gè)判斷一樣,是一個(gè)內(nèi)在統(tǒng)一的成立。當(dāng)我們說(shuō)意志在外界實(shí)現(xiàn)的時(shí)候,就和在研究學(xué)問(wèn)時(shí)自己的想法被實(shí)驗(yàn)證明了的場(chǎng)合一樣,是打破主客之別的最統(tǒng)一的直接經(jīng)驗(yàn)的出現(xiàn)。有人說(shuō)意識(shí)內(nèi)部的統(tǒng)一是自由的,而與外界的統(tǒng)一就必須服從自然。但是內(nèi)部的統(tǒng)一也不是自由的,統(tǒng)一都是賦與我們的東西,從純粹經(jīng)驗(yàn)來(lái)看,內(nèi)外等區(qū)別也是相對(duì)的。所謂意志的活動(dòng)不僅僅是一種希望的狀態(tài)。希望是意識(shí)的不統(tǒng)一狀態(tài),而且是意志的實(shí)現(xiàn)受到妨礙的場(chǎng)合。唯有意識(shí)統(tǒng)一才是意志活動(dòng)的狀態(tài)。即令現(xiàn)實(shí)與自己的真實(shí)的希望相反,但在自己滿(mǎn)足于現(xiàn)實(shí)并與現(xiàn)實(shí)純化而為一的時(shí)候,現(xiàn)實(shí)便是意志的實(shí)現(xiàn)。反之,無(wú)論處于怎樣完備的境況下,如果另有各種希望而現(xiàn)實(shí)呈現(xiàn)不統(tǒng)一的狀態(tài)時(shí),就是意志受到了阻礙。意志的活動(dòng)與否和純化而為一與否,即統(tǒng)一與不統(tǒng)一是有關(guān)的。

   例えばここに一本のペンがある。これを見(jiàn)た瞬間は、知ということもなく、意ということもなく、ただ一個(gè)の現(xiàn)実である。これについて種々の連想が起り、意識(shí)の中心が推移し、前の意識(shí)が対象視せられた時(shí)、前意識(shí)は単に知識(shí)的となる。これに反し、このペンは文字を書(shū)くべきものだというような連想が起る。この連想がなお前意識(shí)の縁暈としてこれに附屬している時(shí)は知識(shí)であるが、この連想的意識(shí)其者が獨(dú)立に傾く時(shí)、即ち意識(shí)中心がこれに移ろうとした時(shí)は欲求の狀態(tài)となる。而してこの連想的意識(shí)がいよいよ獨(dú)立の現(xiàn)実となった時(shí)が意志であり、兼ねてまた真にこれを知ったというのである。何でも現(xiàn)実における意識(shí)體系の発展する狀態(tài)を意志の作用というのである。思惟の場(chǎng)合でも、ある問(wèn)題に注意を集中してこれが解決を求むる所は意志である。これに反し茶をのみ酒をのむというようなことでも、これだけの現(xiàn)実ならば意志であるが、その味をためすという意識(shí)が出て來(lái)てこれが中心となるならば知識(shí)となる、而してこのためすという意識(shí)其者がこの場(chǎng)合において意志である。意志というのは普通の知識(shí)という者よりも一層根本的なる意識(shí)體系であって統(tǒng)一の中心となる者である。知と意との區(qū)別は意識(shí)の內(nèi)容にあるのではなく、その體系內(nèi)の地位によりて定まってくるのであると思う。

例如這里有一支鋼筆,在看到它的瞬息之間,既沒(méi)有知,也沒(méi)有意,而只是一個(gè)現(xiàn)實(shí)。等到對(duì)這支鋼筆發(fā)生種種聯(lián)想,意識(shí)的中心開(kāi)始移動(dòng),前面的意識(shí)被視為對(duì)象時(shí),前面的意識(shí)便成為單純的知識(shí)性的。反之,便會(huì)發(fā)生這支鋼筆能寫(xiě)字等類(lèi)的聯(lián)想。在這個(gè)聯(lián)想仍作為前面的意識(shí)的邊緣而附屬于它的時(shí)候,就是知識(shí);但在這個(gè)聯(lián)想的意識(shí)本身趨向于獨(dú)立的時(shí)候,即意識(shí)中心剛要向它轉(zhuǎn)移的時(shí)候,便成為欲望的狀態(tài)。并且,在這個(gè)聯(lián)想的意識(shí)即將成為獨(dú)立的現(xiàn)實(shí)時(shí),就是意志,同時(shí)也可以說(shuō)是達(dá)到了真正的認(rèn)識(shí)。凡是現(xiàn)實(shí)中的意識(shí)體系的發(fā)展?fàn)顟B(tài)都叫做意志的作用。在思維的場(chǎng)合,把注意集中于某個(gè)問(wèn)題上謀求解決時(shí)也就是意志。反之,像喝茶、飲酒這樣的事,只要有這個(gè)現(xiàn)實(shí),就是意志;如果產(chǎn)生嘗嘗味道的意識(shí),而且這成為中心的話,便成為知識(shí);而嘗嘗味道這種意識(shí)本身,在這種場(chǎng)合就是意志。所謂意志,比起通常所謂知識(shí)是更帶有根本性的意識(shí)體系,又成為統(tǒng)一的中心。因此我認(rèn)為,知與意的區(qū)別不在于意識(shí)的內(nèi)容,而是根據(jù)其體系內(nèi)的地位來(lái)決定的。

   理性と欲求とは一見(jiàn)相衝突するようであるが、その実は両者同一の性質(zhì)を有し、ただ大小深淺の差あるのみであると思う。我々が理性の要求といっている者はさらに大なる統(tǒng)一の要求である、即ち個(gè)人を超越せる一般的意識(shí)體系の要求であって、かえって大なる超個(gè)人的意志の発現(xiàn)とも見(jiàn)ることができる。意識(shí)の範(fàn)囲は決していわゆる個(gè)人の中に限られておらぬ、個(gè)人とは意識(shí)の中の一小體系にすぎない。我々は普通に肉體生存を核とせる小體系を中心としているが、もし、さらに大なる意識(shí)體系を中軸として考えて見(jiàn)れば、この大なる體系が自己であり、その発展が自己の意志実現(xiàn)である。たとえば熱心なる宗教家、學(xué)者、美術(shù)家の如き者である?!袱胜堡欷肖胜椁獭工趣い硇预畏▌tと、単に「余はかく欲する」という意志の傾向とは全く相異なって見(jiàn)えるが、深く考えて見(jiàn)るとその根柢を同じうする者であると思う。すべて理性とか法則とかいっている者の根本には意志の統(tǒng)一作用が働いている、シラーなどが論じているように、公理 axiom というような者でも元來(lái)実用上より発達(dá)した者であって、その発生の方法においては単なる我々の希望と異なっておらぬ(Sturt, Personal Idealism,p. 92)。翻って我々の意志の傾向を見(jiàn)るに、無(wú)法則のようではあるが、自ら必然の法則に支配せられているのである(個(gè)人的意識(shí)の統(tǒng)一である)。右の二者は共に意識(shí)體系の発展の法則であって、ただその効力の範(fàn)囲を異にするのみである。また或は意志は盲目であるというので理性と區(qū)別する人もあるが、何ごとにせよ我々に直接の事実であるものは説明できぬ、理性であってもその根本である直覚的原理の説明はできぬ。説明とは一の體系の中に他を包容し得るの謂である。統(tǒng)一の中軸となる者は説明はできぬ、とにかくその場(chǎng)合は盲目である。

乍一看來(lái),理性與欲望似乎是相矛盾的,實(shí)際上兩者具有同一的性質(zhì),不過(guò)有大小深淺的差別而已。我們說(shuō)理性的要求,就是指更大的統(tǒng)一的要求,也就是超越個(gè)人的一般的意識(shí)體系的要求,也可以看做是大的超個(gè)人的意志的表現(xiàn)。意識(shí)的范圍決不限于所謂個(gè)人,個(gè)人不過(guò)是意識(shí)中的一個(gè)小體系。我們通常作為中心的是以肉體生存為核心的小體系,但如以更大的意識(shí)體系為樞軸來(lái)進(jìn)行思考,那么這個(gè)大的體系就是自己,它的發(fā)展就是自己的意志的實(shí)現(xiàn)。例如熱心的宗教家、學(xué)者或美術(shù)家等就是這樣的。所謂“必須這樣”這種理性的規(guī)律和僅僅是“我希望這樣”這種意志的傾向似乎是完全不同的,但如深加思考,就可以認(rèn)為它們的根基是相同的。在一切的理性或規(guī)律這種東西的根本上都有意志的統(tǒng)一作用在進(jìn)行活動(dòng),正如席勒等所論述的,公理(axiom)這個(gè)東西本來(lái)也是從實(shí)用上發(fā)展起來(lái)的,其發(fā)生方法和我們的單純的希望是相同的。反過(guò)來(lái)看我們的意志的傾向似乎是無(wú)規(guī)律的,但它本身卻受著必然規(guī)律的支配(這就是個(gè)人意識(shí)的統(tǒng)一)。這兩者都是意識(shí)體系的發(fā)展規(guī)律,只是它的效力范圍不同而已。又或有人認(rèn)為意志是盲目的,因而與理性有區(qū)別;但無(wú)論怎樣,與我們直接有關(guān)的事實(shí)是不能說(shuō)明的,即使是理性,作為它的根本的直覺(jué)的原理也是不能說(shuō)明的。所謂說(shuō)明,是指的在一個(gè)體系中能包容其他而言。作為統(tǒng)一的樞軸的東西是不能說(shuō)明的,總之,這種場(chǎng)合是盲目的。

注釋?zhuān)?/span>

本文譯自西田幾多郎《善的研究》第一編【純粹經(jīng)驗(yàn)】第三章。

[1] 譯者簡(jiǎn)介:何倩,中國(guó)社會(huì)科學(xué)院日本所研究員。

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