自治體としては完全に同等のもの。歴史的な呼び方の違いだけ
作為自治體是完全同等的存在。只是因為歷史上的稱謂不一樣而已
現(xiàn)行の「地方自治法」ではそれぞれに全く違いはなく,完全に“同格”の存在です。法律上「都」「道」「府」「県」は呼び方の違いがあるだけで同格の役所です。
現(xiàn)行的“地方自治法”中,它們各自完全沒有區(qū)別,完全是“同等資格”的存在?!岸肌薄暗馈薄案薄翱h”只是在法律上的稱謂不一樣,實際上是完全同等的。
「〇〇県」とか「××府」などといっているのは,それぞれの自治體が“歴史的な呼稱”を使用しているにすぎない,と解釈できます。戦後にできた「地方自治法」の第3條第1項の「地方公共団體の名稱は、従來の名稱による」という規(guī)定に基づいて、昔のままの名前を引き継いでいます。
可以這么解釋:所謂“〇〇縣”或“××府”等,只不過是使用了各個自治體“歷史上的稱呼”而已。在戰(zhàn)后制定的《地方自治法》中第3條第1項“地方公共團(tuán)體的名稱,根據(jù)一直以來的名稱而定”,以這條規(guī)定為基準(zhǔn),就這么沿用了以前的名字。
明治時代は、もともと「府」と「県」だけだった
明治時代,原本只有“府”和“縣”
「府」と「県」の違いはかつての重要度。明治政府にとってより重要とされた東京、京都、大阪の3都市は「府」とし、それ以外を「県」とした。
“府”和“縣”的不同是根據(jù)以前社會的重要度而被劃分。對于明治政府來說比較重要的東京、京都、大阪這三個城市稱為“府”,以外的地方都稱為“縣”。
もともとは、府県から始まり、都や道はあとからできたもの。
原本就是從府縣開始,“都”和“道”都是后來才產(chǎn)生的稱謂。
「県」は訓(xùn)読みでは「あがた」と読み、単に「地方」を意味する言葉ですが、「府」と言う言葉は古代から「役所」の意味で使われてきました。
“縣”的訓(xùn)讀為“あがた”,是一個單純表示“地方”的詞語,“府”這個詞是古代流傳下來,被用作“官府”的意思。
最初は9つあった「府」
最初有9個“府”
明治元年、新政府は「府藩県三治制」を敷き、舊幕府の直轄地の城代?京都所司代?奉行の支配地(幕府にとっての重要地)を「府」、それ以外を「県」としました。その時は北海道は「函館府」、東京都は「江戸府(後に東京府)」で、他にも「長崎府」「神奈川府」「奈良府」などがありました。
明治元年,新政府推行“府番縣三治制”,將舊幕府直轄的城代?京都所司代?奉行的支配地(對幕府而言重要的地方)封為“府”,除此之外全部命名為“縣”。那個時候,北海道叫做“函館府”、東京都叫做“江戶府(后改為東京府)”,其他還有“長崎府”“神奈川府”“奈良府”等。
1871年の廃藩置県によって「府」は特に重要な3つに絞られ、その他の「藩」や「府」は県に置き換わりました。この頃は3つの「府」と302もの「県」がありました。その後何度か「県」の統(tǒng)合と分立があり、現(xiàn)在と同じ43県になりました。
1871年根據(jù)廢藩置縣,“府”被集中在最重要的3個城市上,其他的“藩”、“府”全部被置換為“縣”。那個時候,有3個“府”以及302個“縣”。經(jīng)過多次“縣”的統(tǒng)合與分立,才變成現(xiàn)在的43個縣。
東京は府と市の二重行政を解消するために「都」として一本化
東京為了消除“府”和“市”的二重行政,作為“都”將其一體化
東京には明治22(1889)年以來、東京府と東京市が存在したが、首都であることを理由に都心部における二重行政が早くから問題視された。
東京在明治22(1889)年以來,一直作為東京府和東京市而存在,由于東京為首都,首都中心所施行的二重行政問題很快就被重視起來了。
昭和18年には戦時體制の強化策で、東京府と35區(qū)からなる東京市が統(tǒng)合。二重行政を解消し首都行政の一元化を行った。
昭和18年,作為戰(zhàn)時體制的強化策略,東京府和35區(qū)組成的東京市統(tǒng)合。解除了二重行政,實施首都行政一體化。
東京市は東京府と合併され「東京都」となり、市制と自治権を剝奪された。
東京市與東京府合并成為“東京都”,市制以及自治權(quán)被剝奪了。
江戸時代の蝦夷地(後の北海道)の地図。
江戶時代的蝦夷地(后來的北海道)的地圖。
未開の地の「蝦夷地」を「北海道」と命名。なんだかんだで自治體名として現(xiàn)在へ
未開發(fā)的地方“蝦夷地”被命名為“北海道”。就這樣作為自治體名沿用到現(xiàn)在
當(dāng)時、蝦夷地が未開拓だったことがうかがえます。蝦夷とは先住民族のアイヌ人を指す言葉で、蝦夷地はアイヌ人の住む土地と言う意味です。北海道の海の字はもともと「加伊(カイ)」で、アイヌ語で「この地に生まれし者」という意味の言葉だそうです。
當(dāng)時,蝦夷地是未開拓的土地這一點有待考證。蝦夷是指早期在住民族阿伊努人的詞匯,蝦夷地就是阿伊努人人居住的土地的意思。北海道的海字本來是“加伊(カイ)”,在阿伊努語中指“在這片土地上出生、成長的人”的意思。
日本には、北の境の概念が希薄だったのですが、江戸時代後期以降、ロシアの進(jìn)出に伴って意識せざるをえなくなりました。
在日本,對北國邊境的概念比較稀薄,在江戶時代后期以后,伴隨著俄羅斯進(jìn)出,才不得不意識到北方的存在。
いつまでも「蝦夷地」ではいけないので、新名稱をつけるべきであるという意見は、江戸時代末期から多かった。
總不能一直叫“蝦夷地”,江戶時代末期有很多意見都表示應(yīng)該取一個新的名字。
「道」の名稱は、律令制時代に地域區(qū)分として存在した「道」を明治初期に応用して作った「北海道」を、そのまま自治體名に変換して使用したもの。
“道”這個名稱,是律令制時代用來劃分區(qū)域的,明治初期,運用“道”來劃分出來的“北海道”,就原模原樣的變換為自治體的名稱使用了。
「県」にしちゃでかすぎる。なのでより広域を示す「道」が使われている
作為“縣”面積實在是太大了。那么就使用表示更廣闊區(qū)域的“道”
「道」と「県」の違いは管轄範(fàn)囲。
“道”和“縣”的區(qū)別在于管轄范圍。
北海道だけが、「道(どう)」でひとつの行政単位になっている。
北海道是唯一一個被稱為“道”的行政單位。
「道(どう)」というのは、律令國家の地方行政の基本區(qū)分です。起源は古代中國で、それにならって日本でも天武朝(7世紀(jì)後半)に成立しました。
“道”是律令國家的地方行政的基本分區(qū)。起源于古代中國,日本效仿中國,在天武朝(7世紀(jì)后半)成立了道。
四國四県は南海道、九州七県は西海道、などという感じでしょうか。
所以,四國四縣為南海道、九州七縣為西海道,大概就是這種感覺吧。
北加伊道から北海道に漢字が変更されたのは、昔からある行政區(qū)分の「東海道」や「南海道」に倣ったもの。都道府県の上に広域の行政區(qū)分を設(shè)ける「道州制」が議論されるときも北海道はそのまま1つの「道」とされる意見が多いです。
從北加伊道的漢字變更為北海道是效仿以前的行政分區(qū)“東海道”、“南海道”等。在以都道府縣的面積來設(shè)置行政區(qū)域的“道州制”被議論紛紜的時候,只有將北海道原封不動作為唯一一個“道”的行政區(qū)獲得了大量肯定的意見。
五畿七道にならって日本を「道」に分けるとこんな感じ
效仿五畿七道,日本“道”的分區(qū)就是這種感覺
五畿七道(ごき しちどう):指古代日本全土在律令制下的行政區(qū)域劃分?!拔彗堋敝妇╃軈^(qū)域內(nèi)的5國,京畿之外的其他領(lǐng)土則仿中國唐制,共分七道。五畿七道制度自奈良時代開始實施,直到明治初期的廢藩置縣為止,但部分道名仍沿用至今。五畿七道據(jù)說是在天武天皇時所確立的。
北海道を加え現(xiàn)在では五畿八道と呼ばれています?,F(xiàn)在ではこの行政區(qū)畫はすたれてしまいましたが、東海道を通る東海道新幹線、南海道で起こると予想される南海地震などの日本の特定の広域を示す區(qū)畫名として殘っています。
加上北海道,現(xiàn)在被稱為“五畿八道”。雖然現(xiàn)代這種行政區(qū)劃分已經(jīng)被廢除了,通往東海道的東海道新干線、還有在南海道被預(yù)測并且發(fā)生的南海地震等表示日本特定區(qū)域的區(qū)畫名還留存著。
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