第一次會面。
歷史上孔子第一次會見老子時,老子還在周王朝藏書室中做史官。
這次會面孔子除學到了很多禮制制度外,對孔子感悟最深的應該是老子的這段話,這也正是“上善若水”的精髓。
兩人離別時,老子指著黃河說道:“你為何不能學習水的德行呢?”
孔子不解,問道:“水的德行又是怎樣的?”
老子回答說:
“善行的最高境界就像水一樣,滋潤萬物而不爭名逐利,處于天下眾生所厭惡的地方,反而更接近于道,這是謙虛的德行。
江河之所以能夠成為一切河流的歸宿,是因為它善于處在下游的位置上,成為百谷之王。
天地之間,最柔弱的東西莫過于水,但是它卻能穿透最堅硬的事物,水滴石穿。
可見,柔能克剛,弱能勝強。
不見具體形狀的東西,可以進入到?jīng)]有縫隙的東西中去。
由此可知,無言的教化和無為的益處更甚于有為?!?/p>
初めて會いました。
歴史上、孔子が初めて老子に會ったとき、老子は周王朝の蔵書室で史官をしていました。
今回孔子に會って多くの禮制制度を學んだ以外、孔子に対して悟性の最も深いのは老子のこの話であるべきで、これもまさに「上善若水」の神髄です。
二人が別れるとき、老子は黃河を指して言いました?!袱胜?、水の徳を學べないのか。」
孔子は首をかしげて、「水の徳目とはどのようなものですか?」
老子は答えます。
「善行の最高の境地は水のようなもので、萬物を潤して名を爭わず利を追う、天下の衆(zhòng)生が嫌うところにあって、かえって道に近い、これは謙虛な徳目です。
川がすべての流れの場所になることができるのは、川が下流の位置に立つことが上手で、百谷の王になるからです。
天と地の間で、最も弱いものは水に勝るものはありません、しかしそれは最も堅いものを貫通することができて、水滴石穿きます。
柔は剛を制し、弱は強に勝つということです。
形の見えないものは、隙間のないものの中に入ることができます。
よって、有為よりも無言の教化、無為の益の方が大きいことがわかります。
孔子恍然大悟,說:
“先生的話使我茅塞頓幵。天下之人都高高在上,只有水處在下方。
天下之人都喜歡安逸,只有水處于艱險;天下之人都喜歡潔凈,只有水處在污穢之中。
水趨向的處境都是天下人厭惡的,所以沒有人能與之相爭,這就是最高境界的善。”
老子接著說:
“當你不與天下人相爭時,天下將沒有人能與你相爭,這就是效仿水德行事。
水最接近于道,道無處不在,水無所不利。水避高趨下,從不回流,善于利用地勢的起伏。
你看那深潭中的一汪碧水,表面淸澈而平靜,卻是那樣的深不可測。
水也會有流失,但卻從不會枯竭。
默默無聞的滋潤萬物,卻不求回報,這就是水至善至仁的品格。
它遇到圓形障礙就繞其而行,遇到方形障礙就折回而走,遇到堵塞就暫時停止,一旦出現(xiàn)決口就浩蕩奔流,這就是水的信譽。
它能洗滌骯臟污穢,能使崎嶇的地勢趨于平緩,這就是水的能力。
它用浮力載物,用清面照人,用堅毅的恒心克服障礙,這就是水的長處。
它日夜而人、賢人和聰明的人都善于選擇時機,能隨機應變、順天應時,就像皓皓明月,靜觀世事滄桑。
孔子はハッとして言いました。
「先生の言葉で幵塞頓氏になりました。天下の人はみな上にいて、水だけが下にいます。
天下の人はすべて安逸が好きで、水だけが困難で危険です;天下の人は清らかさを好み、水だけは穢れの中にあります。
水が向かう境遇は天下の人が嫌悪するので、誰も爭うことはできません。これが最高の善です?!?/p>
老子は続けて言います。
「あなたが天下人と爭わなければ、天下の誰もあなたと爭うことはできません。これが水徳にあやかって事をなすということです。
水は道に最も近くて、道は至る所にあって、水は不利なところがありません。水は高走を避け、還流せず、地勢の起伏をうまく利用しています。
あなたはあの深い淵の中の1汪の碧水を見て、表面は澄んで穏やかで、しかしそのような深さは計り知れません。
水が失われることはあっても、枯渇することはありません。
鳴かず飛ばずで萬物を潤して、見返りを求めないで、これは水の善至仁の品格です。
丸い壁にぶつかったらその周りを通り、四角い壁にぶつかったら引き返し、詰まったらいったん止まり、決壊したら大きく流れる、これが水の信用です。
汚れや汚れを洗い流し、険しい地勢を緩やかにしてくれるのが水の力です。
浮力で物を運び、きれいな顔で人を照らし、毅然とした心で障害を克服するのが水の長所です。
晝夜を問わず、賢人や聡明な人は、時機を選び、臨機応変に、天に応じて、月のように世の変転を靜観しています。
你現(xiàn)在冋去,應該戒驕戒躁。
要不然,你人還沒到,名聲就已經(jīng)傳來,身體還未動,聲勢已經(jīng)先行,張張揚揚,就像老虎走在大街上。
這樣,誰還敢用你呢?”
孔子聽后恍然大悟。
あなたは今冋に戒驕戒躁なければならない。
そうでなければ、まだ來てもいないのに、名聲が伝わってきたり、體が動いてもいないのに、勢いが先行して、威勢が高くなってきたりして、まるで虎が街を歩いているようなものです。
このように、誰があなたを使う勇気がありますか?」
孔子はそれを聞いて「なるほど」と思いました。
兩人第二次會見,是在老子辭官回到故鄉(xiāng)苦縣曲仁里。
這次會見,兩人談到了仁義,但老子并沒有認同孔子所言的仁義。
在老子看來,這擾亂了人的本性,人應該順應自然。
老子說:
“人出生在世界上是—種自然現(xiàn)象,因此人的行為也要順應自然規(guī)律。
你看,天地按自然規(guī)律運行,日月星辰按次序周而復始的運轉,飛禽走獸按彼此的生存之道和諧共處。
這并不是人為的刻意安排, 而是它們遵循自然之理,按天性生存、發(fā)展?!?/p>
人生于宇宙之間,和天地萬物一樣有屬于自己的生存之理。
人的生、死、榮、 辱,都應遵循自然之道。
順天而行,順理而作,任憑人們按自己的喜好自得其樂,人的本性就顯示出來了。
人為的標榜仁義的結果,只能離仁義越來越遠。
你苦苦求索仁義,意在實現(xiàn)人的本性,可結果卻適得其反,擾亂了人的本性?!?/p>
二人の第2回の會見は、老子が官を辭して故郷の苦県曲仁里に帰った時です。
この會見で二人は仁義について語りましたが、老子は孔子の言う仁義を認めていません。
これは人間の本性を亂すものであり、自然に順応すべきだと老子は考えています。
老子は言います。
「人が世界で生まれたのは—一種の自然現(xiàn)象なので、人の行働も自然の法則に順応しなければなりません。
ごらんなさい、天と地は自然の法則によって運行して、日月と星と星は順序によって回り始めた運行して、鳥と獣はお互いの生存の道によって調(diào)和して共存します。
これは人為的なものではなく、自然の理に則り、自然のままに生き、発展しているのです。
人生は宇宙の間で、天地の萬物と同じに自分の生存の理に屬します。
人の生、死、栄、辱はすべて自然の道に従うべきです。
天に沿って行い、道理に沿って行い、人々が自分の好きなように楽しむに任せて、人間の本性が現(xiàn)れます。
人為的に仁義を標榜した結果、ますます仁義から遠ざかるしかない。
あなたは仁義を求めて人間の本性を実現(xiàn)しようとしますが、それがかえって人間の本性をかく亂してしまいます。
兩人第三次會面是在很多年后了,此時孔子已聞名于世,老子隱居于世。
這次,主要探討的是何謂天道。
對此,老子說:
“陰陽之道,深不可測,人有眼睛卻看不見,有耳朵卻聽不到,有語言卻不能傳授,是平常人的智慧所不能理解的。
因此,所謂的得道并非真正得道,而只是體道。
假若你像認識宇宙中的有形事物一樣去認識它,借助于眼、耳和語言,那將永遠無法懂得道。
求道的關鍵在于內(nèi)心的覺悟,如果內(nèi)心體悟不到道的存在,道將不能保留。
心中體悟到了道的存在,還要在現(xiàn)實中進一步印證,得不到現(xiàn)實印證的道,不能暢通無阻的前進。
這就是得道的圣人雖內(nèi)心有所領悟,卻不能為外人道的原因。
一個人僅僅希望能從外界獲得關于道的認識,而不去用心體會,即便是圣人也不愿意教授他?!?/p>
學問淵博也不一定懂得大道,就像擅長辯論的人不一定有智慧一樣。
無用的知識和辯術早已被圣人所摒棄,所以得道的圣人總是處于一種體悟大道的狀態(tài)。
道,淵深似海,高聳如山,周而復始循環(huán)運轉,主宰萬物并賦予萬物以永無窮盡的動力。
宇宙萬物,都是因為有了道的給予,才不至于匱乏。
老子三段話,道盡天道玄機,孔子獲益良多。
二人が三回目に會ったのは數(shù)年後で、この時孔子はすでに世に有名で、老子は世に隠棲しました。
今回は、天道とは何かということです。
これに対して、老子はこう言います。
「陰陽の道は、深くて底が知れず、人は目があっても見えず、耳があっても聞けず、言葉があっても教えることができず、普通の人の知恵では理解できません。
したがって、得道とは真の得道ではなく、ただ體道でしかありません。
もしあなたが宇宙にあるものを、形あるもののように認識しているとしたら、それは目や耳や言葉によって、永遠に理解することはできません。
求道の鍵は心の覚悟にあり、心が道の存在を悟らなければ、道は保てません。
心の中で悟った道は、現(xiàn)実の中でさらに実証され、実証されない道は、スムーズに進むことができません。
これが、道を得た聖人が、心の中では悟っていても、人の道を説くことができない理由です。
人は道についての認識を外から得ようとするだけで、心の中で體得しようとしないので、聖人でも教えたがらないのです」
議論のうまい人が必ずしも知恵を持っているとは限らないのと同じように、學問が深くても道がわかるとは限らないのです。
無用な知識や弁術はすでに聖人に切り捨てられていますから、道を得た聖人は常に悟りの狀態(tài)にあります。
道、深くて海のようで、高くて山のようで、回り始めて循環(huán)して回って、萬物を支配してそして萬物に永遠に盡きる働力を與えます。
宇宙の萬物、すべて道の與えることがあるため、やっと欠乏しません。
老子の三段の言葉は、天道のからくりを語り盡くしているので、孔子も多くのことを學んでいます。
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